
占術師列伝~西洋編
歴史に名を残した占術家たち
クラディオス・プトレマイオス
ニコラウス・コペルニクス
フィリップス・A・パラケルスス
ジェロラモ・カルダーノ
ミッシェル・ド・ノストラダムス
ジョン・ディー
チコ・ブラーエ
ヨハネス・ケプラー
ウィリアム・リリー
エッティラ
マリ・ルノルマン
◆資料◆引用・参考文献
「占星術の世界 総解説」 山内雅夫著 自由国民社
「占いのすべて 予言の知識」歴史読本 新人物往来社
「陰陽道の本」 学研

クラウディオス・プトレマイオス
(73~151)
天文学の王子にして占星術の帝王
プトレマイオスは、かのクレオパトラの生家でもある没落したプトレマイオス王家の末裔としてアレクサンドリアに生まれた。クレオパトラの死、すなわちプトレマイオス王朝の没落によって、ギリシャ天文学と占星術は忘れられてしまったかにみえた。が、子孫たるプトレマイオスはこれを掘り起こして集大成する作業に生涯をかけた。プトレマイオスはそうした偉業を成し遂げた偉大な天文学者であったが、後に1500年にも渡って世界の秩序を支配続けた天動説の生みの親でもあった。プトレマイオスは古代の叡知を後世に伝えることに一生の夢をかけ未来に希望を託したのだろうが、皮肉にもその宇宙観は1000年後プトレマイオスと占星術を忌避した中世キリスト教の宇宙観に取り入れられることになった。そしてその結果、人々の目を真実からそらさせる事になり、コペルニクスの悲劇へとつながり天文学の発展を妨げさせる結果も生んでしまった。
プトレマイオスが生きた時代・・ローマの時代は、まだまだキリスト教はさほどの隆盛を誇ってはいなかった。が、その後キリスト教はヨーロッパを初めとしてその勢力を広げて行ったのである。占星術は回教徒の国では受け入れらるべき学問と思想であったが、キリスト教にとっては占星術はその教義と信仰に反するものだったので、長きにわたって悪魔の書として異端・拒絶された。が、中世の世に入ってから法王に謙譲されたことで、日の目を見ることになったのである。
プトレマイオスの天空の地図ともいうべき天文書「アルマゲスト(原題 マセマチク・シンタクシスト=数学大集成)」は全部で13巻からなっており、ヒッパルコスの観測と理論を完成したものだ。この本はかの有名なアレクサンドリアの図書館が火災の際からくも消失を免れ幸運に後世へと伝えられた。彼はその後、地上の地理からなる時間と空間の未来学を世界地図にした「コスモグラフィア」の作成に取り掛かり、さらに古代占星術を集大成した書「テトラビブロス(全4部)」を表した。

ニコラウス・コペルニクス
(1473~1543)
現代天文学の礎を築いた教会の異端児
カバリストにして天文学者であったコペルニクスは1473年2月19日午後4時38分、ポーランドの商業都市トルニに商人の子として生まれた。10歳で父親に死に別れ、18歳でクラクワ大学に入学し、神学、数学、天文学、占星術を学んだ。さらにイタリアへ遊学し、ボローニャ大学に入学したコペルニクスは占星術の教授であるドメニコ・マリア・ノヴァラの家に内弟子として住み込み、4年間その研究に打ち込んだ。その次にはパドヴァ大学で三年間学んで医学を習得し、その後フェラーラ大学に転じて今度は教会法で博士号を得るのである。それにしても彼の向学心には驚かされる。父という大黒柱のない家庭に育った彼がよくもまあ、こんなに学問に接していられるのだろうと首を傾げずにはいられないが、いちおう家は富裕な階級に属していたようだ。それに22歳の時には、母の兄弟で後見人である司教の縁故で参事会員に推挙され、わずかながらも年金を受け取る恩恵にもありついていた。
33歳ですべての学問を終え、故国に帰属したコペルニクスは叔父の秘書兼侍医として雇われたが、彼の頭の中は天文学の事でいっぱいだった。ゆくゆくは自分の後継者として司教の道へ進ませようとしていた叔父とは当然反りが合うはずもなく、やがてコペルニクスは叔父の庇護の元を離れることになる。 コペルニクスは占星術師というよりは天文学者であるが、天文学なくして占星術は語れない。そしてコペルニクスの思想的背景には常にカバラという、キリスト教的社会とは相反する思想が存在していた。聖職者を生業とし、その糧で占星術や天文学者を研究し、当時の倫理ともいえる(キリスト教社会を根底から支えている)天動説を切り崩す刃を養っていたのだから、キリスト教社会においては彼はまさに獅子身中の虫・・いやさ異端児であった。しかし、彼は当時の中世という教会が立法という社会のしくみをよく知っていたし、それに逆らって自説を振りかざし、己を危険にさらすほど愚か者ではなかった。彼は自説に陶酔しながらもその発表までは考えていなかった。彼の弟子でホモセクシャルであった25歳の若者・・数学者レテイクスが強靭に出版を進めなかったならば・・その先の時代はもう少しゆっくりと訪れていたかもしれない。そして、レテイクスがホモセクシャルでなかったら、地動説は、好意的とは行かないまでもあのように 扱われなかったかもしれない。
もし、この慎重なる学問好きの隠者がプトレマイオスの天動説に対する波紋を投げかけておかなかったら、世の中の歴史と科学はどのような形で我々の前に存在していたであろう・・・?この波は100年の長きをへてガリレオ・ガリレイと引き継がれて行くのだが・・・
1543年5月24日、彼は病床にあり、自らが生涯のすべてを費やした著書「回転」の第一版が届くのを待っていた。やっと届いたその本の表紙を開き、序文を読み始めるやいなや顔色を失って倒れてしまう。別居していたがために愛人にも見取られず、それから数時間の後、この教会法の異端児は一人寂しくこの世を去った。

ジェロラモ・カルダーノ
(1501~1576)
占星術の殉教者
カルダーノは1501年9月24日午後6時40分、イタリアに生まれた。74歳のとき書いた自叙伝の中で、己の天宮図について自ら解説した文は次の通りである。「太陽は6室に没し、月は12室に傾きながら地平に僅か姿を現している、それ故、星相は太陽と月の相が衝で凶となっている。月と火星は30度で悪くはないが、火星と太陽は150度で凶角となっている。つまり私は奇形児に生まれてくる可能性があった訳で、母の胎内から仮死状態で引っ張り出されたのである(カルダーノは堕胎の失敗から出生した)太陽と二つの悪い星、金星と水星とが乙女座という人象星座に在泊しているおかげで、私はかろうじて、人間の姿をとどめることができた。
しかし、木星がアセンダントを上昇しており、エロスの星、金星が支配する天秤座が隠れているため生殖器が傷ついた。~略~しかし金星と水星は共に太陽の影響化にあって、しかも太陽との角度は悪くなかったので、私は哀れな不幸な星の下に生まれ落ちたとしても、金星と水星の凶影響は免れることができたのである。~以下省略(全文 山内雅夫訳)」J・B・モランはカルダーノの天宮図を見て次のように述べている。「第一室の火星と第二室の土星の角度は45度で凶角となり、さらに火星と水星は衝を形成しているので、天宮図からこの男の変死が予言される。また、水星は天秤座にあるので、この男の数学の才能が暗示される」
カルダーノの偉大な貢献の一つとしては、ピタゴラス以来の秘法の数学を出版によって、市民に解放したことがあげられる。彼は大数学者であり、医者であり、占星術師でもあった。著述家としての才能に秀でていたが、彼の後世に伝えられた評判はその学問的業績の功績に比例してはいない。事実、彼は強引で不実なやり方で名声をものにするような、頭脳のわりに利口とはいえない人物であったようだ。敵を多く作りやすい彼の性格は、医師会への入会を拒まれるという死活問題を伴って彼の人生に仇をなしていた。 名医であったカルダーノは優れた占星術師でもあった。彼が生きたルネッサンス以前より、占星術師と医者がイコールであるという図式は珍しくなかったし、人々が病の事をただの占星術師の所へ相談に行く事もありふれたことだったのである。
けれども彼は他の占星術師がそうであったように、予言の失敗という汚点も数多く残している。悪名高きヘンリー8世が求めて止まなかった寵児・・すなわちイギリス国王エドワード6世の天宮図の命運を見るという幸運を授かったカルダーノは王の長寿を確信し、王の41歳までの人生の節目の運勢図を作成し献上した。
王の天宮図は-天頂の10室には木星が光彩を放ち、ASCは獅子座で王者の威容を見せている-というものであった。結果、病身の王は16歳で短い人生の幕を閉じ、カルダーノは世間の失笑を買ってしまったのであった。(しかし、君臨する王の崩御を予測したならば、処分は免れないという現実を考えると、なまじ失敗であったとは言いがたいが)
カルダーノの占星術師としての失敗の中には彼の身内に関するものも多く含まれた。長男は妻を殺し、彼の次男は富と名声を得るという父親の期待通りの子には育たず、放蕩を尽くしたあげく密告で父親を投獄せしめたのだった。
70歳の時、運を好転させるためボロニアからローマに引っ越しをした彼の選択は唯一正しかった予見の一つであろう。
1576年9月20日、自叙伝を書き上げた後、カルダーノは餓死によって他界した。されどその死は、天宮図に示された死期を裏切らないための占星術師としての殉死であった。

フィリップス・A・パラケルスス
(1493~1541)
早すぎた天才・魔術師の顔を持つ近代医学の父
本名はテオフラスト・ボムバストウス・フォン・ホーエンハイム。医者にして錬金術師、占星術師でもあった彼の功績については、賛否両論まっぷたつに別れてしまう。
パラケルススはもちろん近代的な(当時の)医学と学問を修めた医師であり、社会的な地位を得ることにも一時は成功した人物だった。が、彼は霊的な治療能力(たぶん心理療法と思われる)を用いて治療を行い、なおかつ評判が良かったため、やっかみ半分一般の医者から敵対視された。もっともその方法に問題があったばかりではなく、パラケルスス自体の尊大な性格も同僚たちの反感を買うに十分に値していたのだが。
17世紀のヨーロッパでは、人は病に罹ると医者よりも占星術師の元を訪れたり医者自体が占星術の心得が持っている事は珍しくなくなっていた。だがこれは、占星術が社会的に認められたという事ではない。ある意味では社会が不安を抱えており、庶民に占いが普及しブームとなっていた背景もあった。
パラケルスス以前の医者にも医学占星術の立場から治療を行ったものは当然いたろうし、医者ではなくて占星術師や近代医学以外の民間療法師たちが病気の問診を行うことも珍しい時代でもなかった。けれども、占星術が公に認められていなかった中世社会において、パラケルススほど公然に医学占星術を実践し行ったものはいなかったようである。しかしそれによって彼の科学者たる研究、古代からの民間療法などは、魔術として世間の非難を浴びてしまったようにも思う。
医学と占星術を結び付けることが、理にかなっているかどうか真の医学であるかは別として、古代占星術はもともと医学についても十分に語られており、病気と人体の関係についても述べられていた。占星術創成期においてはそれが医学だった。が、近代医学の立場から言うと、明らかに医学との関連性は認められない。キリスト教にとってもそれは同じことだった。
この時代はキリスト教が人間の不条理な欲望の毒牙に犯されていた時代でもある。魔女狩りや異端尋問を初めとして・・そうしたことを考えるとパラケルススに対する評価は、当時の世相を考えたときにかなり割り引かれて伝えられた感も拭えない。
パラケルススの事は占星術師、占い師とは呼ぶべきでないかもしれない。彼はオカルティストでもあったけれども、あくまでも医師であり、医師として占星術の知識を応用していたに過ぎない。パラケルススは現代の医者が科学を追及するように、錬金術などのオカルトと呼ばれる現象に人体の謎解きと可能性を求めていたように思えるからだ。

ミッシェル・ド・ノストラダムス
(1503~1566)
後の世まで騒がせた予言者
カトリーヌ・メディチがノストラダムスを初めとしたお抱え占い師を多くもったように、魔女狩りや異端尋問の世にあっても、権力者たちだけはそうした異端思想の恩恵に預かることをよしとされていた。いつの時代でもそれは変わらないが・・・国家と結婚したという名言をはき処女王と呼ばれたエリザベスも、占いにはことに関心をもっていたという。
イギリスは女王の時代には栄えると言う。エリザベスの前には異母姉メアリが女王としてあったが、実質的にはエリザベスが最初の女王として呼ばれるのにふさわしい。気まぐれで利発で、外交上手だった女王エリザベス。ジョン・ディーはそんな女王に、庇護された占い師の一人であった。
ジョン・ディーは1527年、ロンドンに生まれた。先祖はプリンス・オブ・ウェールズのロデリック大王であり、父はヘンリー8世(エリザベスの父)の廷臣という由緒正しきエリート貴族の生まれだったのである。ディーはケンブリッジで学び、トリニティカレッジにて数学の博士となった。占星術に出会ったのはどうやらその頃のようである。大学を卒業した後、大陸とイギリスを往復しながら、ルーヴァン、パリ、ソルボンヌなどで学を修めた。1552年にはロンドンのエドワード6世(エリザベスの異母弟)の元へ占星をしにやってきたジェロラモ・カルダーノと出会い、オカルトに開眼したと言う。
エドワードがカルダーノの予言を裏切って早死にすると、その姉メアリが女王として戴冠したので、ディーはメアリ女王の天宮図から薄命を予告し、その罪により投獄されてしまった。カルダーノのエドワードに対する予言は外れたが、ディーはメアリ女王の死によりその予言を的中させてしまった。メアリの後を継いだエリザベスは即刻ディーを釈放させ王室数学官に任命した。彼はまた、エリザベスの王位継承も予告していたのだ。
エリザベス女王の庇護を受けることになったジョン・ディーは、占星術やオカルト(霊の世界・錬金術)ばかりでなく本業の数学(幾何学)にも力を入れ、英訳本を出版したりもしている。女王の腹心として数々の功績を上げ、表彰も多く受けたものだった。その頃の彼の生活は一日のうち勉学研究に18時間を費やし、食事は2時間、睡眠は4時間という修行僧のような厳しいものだったそうだ。が、世間は彼を魔術師と呼び、非難した。女王の寵愛を受けていたため、魔女狩りの犠牲にこそならなかったが。 以前から霊との交信を夢み魔術的研究に没頭していた彼だが、1582年11月、ついに天使が彼の前に現れたと言うことである。そしてディーは天使から卵型の水晶をわたされた。残念ながら、ディーは霊的現象に興味を持つ研究者ではありえたが、霊媒的素質には欠けていた。彼が望む世界をかいま見るには、それを埋め合わせてくれるパートナーが必要だった。ディーが、霊媒かつ降霊術師兼水晶占い師のエドワード・ケリーと出会ったのはそうしたいきさつがあった。
ケリーは1555年にランカシャーにて薬屋の息子として生まれた。美男子だったそうであるが、貨幣偽造という犯罪を犯し、両耳をそぎ落とされていた。現代でもよくあることだが、能力の優秀さと人格の高低は必ずしも比例するものではない。ケリーはなるほど占い師としての素質、霊媒としての能力には長けていたかもしれないが、彼の精神はその能力を生かしきるほど気高くはなかったのだ。ここにジョン・ディーの過ちとつまづきがあった。ディーはケリーによりさんざん寄り道をさせられた後、なるべくして袂を分かつ事を決心する。
ケリーと別れ、ロンドンに戻ったディーはエリザベス女王の変わらぬ歓待を受けるが、長く留守をしていた家は市民によって破壊されていた。ほどなく生活に窮したディーは女王の慈悲で、マンチェスターのクライストカレッジの学長の職にありついた。が、女王の死によって、その職も奪われることになってしまう。
1608年、貴族の産湯をつかって生まれた彼は、その誕生と対照的に塵とほこりにまみれて81歳の生涯を終えた。彼は自分の夢中になっていること、行っていることが魔術ではないと信じていたそうである。ある意味で彼は世間知らずなボンボンだったのかも知れない。

ジョン・ディー
(1527~1608)
魔術師と呼ばれたオカルト博士
カトリーヌ・メディチがノストラダムスを初めとしたお抱え占い師を多くもったように、魔女狩りや異端尋問の世にあっても、権力者たちだけはそうした異端思想の恩恵に預かることをよしとされていた。いつの時代でもそれは変わらないが・・・国家と結婚したという名言をはき処女王と呼ばれたエリザベスも、占いにはことに関心をもっていたという。
イギリスは女王の時代には栄えると言う。エリザベスの前には異母姉メアリが女王としてあったが、実質的にはエリザベスが最初の女王として呼ばれるのにふさわしい。気まぐれで利発で、外交上手だった女王エリザベス。ジョン・ディーはそんな女王に、庇護された占い師の一人であった。
ジョン・ディーは1527年、ロンドンに生まれた。先祖はプリンス・オブ・ウェールズのロデリック大王であり、父はヘンリー8世(エリザベスの父)の廷臣という由緒正しきエリート貴族の生まれだったのである。ディーはケンブリッジで学び、トリニティカレッジにて数学の博士となった。占星術に出会ったのはどうやらその頃のようである。大学を卒業した後、大陸とイギリスを往復しながら、ルーヴァン、パリ、ソルボンヌなどで学を修めた。1552年にはロンドンのエドワード6世(エリザベスの異母弟)の元へ占星をしにやってきたジェロラモ・カルダーノと出会い、オカルトに開眼したと言う。
エドワードがカルダーノの予言を裏切って早死にすると、その姉メアリが女王として戴冠したので、ディーはメアリ女王の天宮図から薄命を予告し、その罪により投獄されてしまった。カルダーノのエドワードに対する予言は外れたが、ディーはメアリ女王の死によりその予言を的中させてしまった。メアリの後を継いだエリザベスは即刻ディーを釈放させ王室数学官に任命した。彼はまた、エリザベスの王位継承も予告していたのだ。
エリザベス女王の庇護を受けることになったジョン・ディーは、占星術やオカルト(霊の世界・錬金術)ばかりでなく本業の数学(幾何学)にも力を入れ、英訳本を出版したりもしている。女王の腹心として数々の功績を上げ、表彰も多く受けたものだった。その頃の彼の生活は一日のうち勉学研究に18時間を費やし、食事は2時間、睡眠は4時間という修行僧のような厳しいものだったそうだ。が、世間は彼を魔術師と呼び、非難した。女王の寵愛を受けていたため、魔女狩りの犠牲にこそならなかったが。 以前から霊との交信を夢み魔術的研究に没頭していた彼だが、1582年11月、ついに天使が彼の前に現れたと言うことである。そしてディーは天使から卵型の水晶をわたされた。残念ながら、ディーは霊的現象に興味を持つ研究者ではありえたが、霊媒的素質には欠けていた。彼が望む世界をかいま見るには、それを埋め合わせてくれるパートナーが必要だった。ディーが、霊媒かつ降霊術師兼水晶占い師のエドワード・ケリーと出会ったのはそうしたいきさつがあった。
ケリーは1555年にランカシャーにて薬屋の息子として生まれた。美男子だったそうであるが、貨幣偽造という犯罪を犯し、両耳をそぎ落とされていた。現代でもよくあることだが、能力の優秀さと人格の高低は必ずしも比例するものではない。ケリーはなるほど占い師としての素質、霊媒としての能力には長けていたかもしれないが、彼の精神はその能力を生かしきるほど気高くはなかったのだ。ここにジョン・ディーの過ちとつまづきがあった。ディーはケリーによりさんざん寄り道をさせられた後、なるべくして袂を分かつ事を決心する。
ケリーと別れ、ロンドンに戻ったディーはエリザベス女王の変わらぬ歓待を受けるが、長く留守をしていた家は市民によって破壊されていた。ほどなく生活に窮したディーは女王の慈悲で、マンチェスターのクライストカレッジの学長の職にありついた。が、女王の死によって、その職も奪われることになってしまう。
1608年、貴族の産湯をつかって生まれた彼は、その誕生と対照的に塵とほこりにまみれて81歳の生涯を終えた。彼は自分の夢中になっていること、行っていることが魔術ではないと信じていたそうである。ある意味で彼は世間知らずなボンボンだったのかも知れない。

チコ・ブラーエ
(1546~1600)
領民を天文学と占星術の犠牲者にした城主
チコ・ブラーエは1546年12月14日スウェーデンに生まれた。父オットーは貴族でヘルシングボルク城の城主でもあった。その兄で海軍中将のヨルゲンには子がないため生まれてくる子の一人を養子とする約束を交わしていた。が、双生児の一人は死産、チコだけが無事だったため父は兄との約束を反古にしたが、ヨルゲンはチコを誘拐し自分の子としてしまった。ヨルゲンは跡継ぎたるチコを異常にかわいがり過保護に育てたため、彼は自分本位で非常に我が儘な性格に育ってしまったと言う。
13歳の時、生まれて初めて部分日食を見たチコは天体の神秘に心奪われたという。この体験はチコを天文学さらに占星術の研究へと向かわせたのだった。17歳の時には、獅子座での土星と木星の会合を観察し当時使われていた星表(アルフォンソ表・プロシア表)に大幅なずれがあることを発見、この事からチコは正確な星表の必要性を感じその作成を決心させた。1566年ロストック大学に在籍していた20歳の時、月食の観察から初めての占星予言を発表した。その予言はトルコのサルタンの死を予見したものであった。この予言はチコの発表から数週間後達成されることになり、チコの名は世に轟くものとなった。が、後にサルタンは月食以前に死んでいたことが分かり、チコは世間を納得させるため占星術へとさらに傾倒したのである。チコは占星術の分野では社会占星術の開発に努めた。
26歳の時、チコはカシオペア座に出現した新星(Nova stella)を発見。これは彼の天文学者としての名声を確立する事件となった。この新星の出現はアリストテレスやプラトンの哲学、キリスト教の教義に基づいた天体現象であったという事で、当時の人々は凶意に恐れおののいた。
チコは30歳になるまでコペンハーゲン大学、ライプチヒ大学、ロストック大学などで勉学し、各地を遍歴していた。その後の20年間はウラニボルクに止まり、観測に専念しては数々の業績を築き上げた。51歳から54歳で死ぬまでの4年間は、住み慣れたフヴェエン島を捨て放浪の旅を繰り返した。彼は名声を讃えられた業績とは裏腹に、島民にとって決してよい君主ではなかった。チコは己が自国ごとき小国にはもったいないくらいの世界的学者であると自称し、島民から絞り取った税で贅沢三昧にふけっていた。彼が占星術ないし天文学の研究に没頭できたのはその立場ゆえで、彼の占星術的貢献は彼に税を絞り取られた島民の犠牲があってこそのものであった。チコの自惚れは島民の直訴、国王の怒りという形でくじかれ、彼は故郷を捨てた。
彼は生まれながらの貴族であったが、彼の妻は農民出身だった(既成事実が先行し結局は正式な式のないままの結婚であったそうである)チコは占星術に熱心なデンマーク王の保護を受けたばかりではなく、天体観測のためにとフヴエン島を下肢された。チコの住処たるウラニボルク城は天文学や占星術を研究する者にとってはまたとない夢と魔法の研究所に巨費を投じて改築された。チコは占星術だけではなく錬金術の研究にも没頭した。宴席を毎夜のように開いては、彼の名声に魅かれて訪れる客をもてなした。その中にはスコットランド王ジェームス6世もいたという。この事からもチコの顧客が彼の身分相応に上客ばかりであったことが伺える。
彼の天宮図は太陽と水星が11室の射手座で合、少し離れて土星が在泊。11室は友人と希望の室であるから、これはチコが高位の友人に支援されている事を意味している。この座相は故郷を追われたチコにオカルト皇帝ルドルフ2世という新たな庇護者をもたらした。
1600年2月チコ53歳の時、当時29歳のヨハネス・ケプラーに出会う事になる。彼は病で床についたチコの言葉を次のように書き綴っている。「わたしの人生が無駄であったとは思わせないでくれ」
しかしチコの願いも空しく、ケプラーは後継者といわれながらも彼の理論を否定する道を辿ったのであった。

ヨハネス・ケプラー
(1571~1630)
占星術と天文学の貢献者
チコに後継者と見込まれた、ケプラーの法則によってつとに有名な天文学者ヨハネス・ケプラーは、1571年12月27日午後2時30分ドイツ?の貧しい家庭に生まれた。彼の計算によると、彼を母が身ごもったのは同年を逆上ること5月16日午前4時37分ということであり、胎内にあったのは224日9時間53分だそうである。
ケプラーの両親はケプラーにいわせると、あまり良い星の元に生まれた人物ではなく、性質も良くないと書き残している。家が貧しかったので、ケプラーは奨学金で学校に通い、チュービンゲン大学へと進学した。そして20歳で学位を得、24歳の時、グラーツのプロテスタントの大学の数学教授となったのであった。面白いことに、このグラーツ大学の数学教授の義務でもある副業として占星暦を作成発行いることが義務づけられていたということである(ケンブリッジやオックスフォード)の大学でも占星術は学科として当時からあるのだけれど)。この占星暦の作成の仕事を通して、予言したことが的中し、ケプラーは占星術師として一躍名を馳せたのだった。
1597年、ピタゴラス派の影響を受けたケプラーは「宇宙の神秘」なる本を刊行した。これを読んだチコはケプラーの才能を見込み、これがケプラーがチコの助手となるきっかけとなったのである。
1600年、助手としてチコの元へ出向いたケプラーであったが、わずか一年半でチコは急逝してしまった。そしてチコの死によってケプラーは、ルドルフ二世からチコの後継者として帝室数学官に抜擢される名誉を得た。この幸運により、ケプラーは若年にして地位と収入の安定を獲得し、生涯を天文学の研究に打ち込む機会をも与えられたのだった。
ケプラーの人類に対しての功績の第一歩は、それまで定説とされていたプトレマイオスやコペルニクスの理論、師匠であるチコの学説の訂正すなわち軌道の修正である。これにより彼は天文学者としての地位も不動のものとした。
彼が残した有名な言葉に”天文学は賢い母、占星術は愚かな娘。しかし、娘がパンを稼がなければ、母は飢え死にしただろう・・”というようなものがある。しかし、これは彼の生活の現状を表したものでもあった。オカルト大帝ルドルフ二世による錬金術の破滅的投資で国庫はすでに破産の憂き目を見ていた。地位や肩書はあっても、給与はすでに支払われず、ケプラーは生活費を稼ぐためにも運勢判断としての占星術を始めなければならなかった。そしてこの時、彼が与えた助言の通りに、出世したある軍人ワレンシュタインの後押しから、ケプラーの生活は何とか上向いていくことになる。
が、それもつかの間、1612年にはルドルフ二世が崩御すると、ケプラーは次の王たるマチアス帝にその職を解かれ、追放とされてしまったのだった。さらに悪いことは重なり、ケプラーはこの後妻子を次々と失うはめにもなった。1618年ケプラーは48歳の時、「世界の調和」なる本を出版した。これは天文学の発見とピタゴラスの“天体の音楽説(ハーモニクスのようなもの)”が矛盾なく一冊の本に収められた、神秘主義と天文学の融合ともいえるべき著書であった。1627年には、ルドルフ二世と師であるチコ待望の書であった「ルドルフ星表」を発表した。ケプラー60歳のある日、彼はフェルナンド皇帝に未払い分の給料を支払ってもらうために馬を走らせていた。
しかし彼は、それによりこじらせた風邪が元で世をさることになってしまったのである。
1630年11月15日奇しくもこの年のケプラーのホロスコープは毎年彼が作成していた自身のチャートの中で、誕生の天宮図と惑星の配置が酷似していたホロスコープでもあった。
彼が不払いの給与をもらえたかどうかは・・・不明である

ウィリアム・リリー
(1602~1681)
占星術の新しい手法・ホラリーを生み出した商売上手
彼は1602年5月1日、イギリスはレスターシャー州の小作人の息子として生まれた。18歳で教育を終えた後、ロンドンに出てある家庭の召使として働き始めた。この主人の妻が占星術に関心をもっていて、リリーはこの時占星術と初めて出会ったのだ。その妻が死に、主人が後妻を迎えた後まもなくして主人までも死んでしまった。この若い未亡人とリリーはまもなく結ばれ、そして結婚した。彼はふってわいた幸運?から、妻と地位を同時に手に入れることになったのである。
1632年にホンの二カ月間、占星術師エヴァンスから占星術を学んだ後、翌年1633年に妻が死んで、遺産が転がり込んで来た。身の回り死ばっかりである。翌年早くも再婚を果たすと、占星術の研究に没頭するべく順調だった店を畳んだ。そして自身をつけたリリーは、1641年に占星術師として開業。最初の占星暦書(アルマナク)を1644年に出版し(その暦書はその後幾度にもわたって増刷された)政治的にも大きな影響力も持つことになった。彼は占星術の指導者としても認知された存在で、歴史上高名なお抱え占い師とは違って、マイペースでビジネスとしての確立した商売人であり、かといってがめつかった訳ではなく、町の占い師として気軽に活躍し、なおかつ名を馳せた人物でもある。そして彼は数々のケースブックを残してもいる。もっとも、このケースブックは残念ながら占星術のデータとしてはあまり使えるものではない。
1647年、リリーは「キリスト教占星術」発表して、キリスト教と占星術の調和を説いた。この時代、イギリスでは幸いにも占星術の地位は落ち着いていたようである。そしてこの翌年、彼は占星術史上に残る有名な予言を残した。彼はこの後も、占星術を用いてノストラダムスもどきの予言をたくさん重ねていくことになるのである。そしてそれは成就されていくのだが・・・
このころのイギリスの政治は議会派と王党派に別れてせっており、その内乱に多くの占星術師が巻き込まれてライバルとして争ってもいた。リリーは議会派に与していたが、王党派が敗れチャールズ一世の悲劇が起こり、リリーのライバルでもあった王党派のジョージ・ウォートンが逮捕された。が、リリーは処刑寸前、彼を釈放させるよう働きかけた。そしてこの行為は後に王党派が巻き返したとき、彼を助けることになる徳でもあったのだ。
1666年、以前にリリーが予言していた通りにロンドンで大火災が起こった。それ故、彼は放火の疑いで詰問されるはめになってしまったそうである。そしてリリーは自らの予測(ロンドンの、大火とペストによる崩壊)に従ってロンドンを脱出し、土地の暴落の時に手に入れていたサリー州の土地へ引っ越し、占星術師としての引退の幕を引いたのであった。そして彼は、医学を学び開業医としての免許を取得、1970年に医師として再出発を果たした。が、1675年には自身が健康を害し、診療から身を引いた。けれども占星暦の発行だけは口述筆記になっても続けて、それは1681年、死の直前まで続いたのであった。
医者の不養生という言葉がある。多くの占い師は自らの運勢の隆起と没落に翻弄されていたのに比べて、リリーは占星術を最もよく活用し、時代をうまく渡り歩いた占星術師でもあった。彼はそれまでの天文学者たる占星術師ではなかった。研究家というのでもなかった。彼は根っからの占い師であったのだ。彼が占星術家として活躍した時代は、ある意味で占星術にとって幸運な時代であったともいえる。
リリーが死して、まもなくイギリスでは大学から占星術が締め出され、天文学との分離を余儀なくされてその地位を失っていったのだから。

エッティラ
(1750~1810)
謎を秘めたタロットの作者
個性的なタロットの作者として知られる彼は、18世紀にパリで活躍した占い師である。本名はアリエッテといい、エッティラと言う名は当時流行した本名を逆に綴る方法で付けられたペンネーム(リーダーネーム)である。
もとは理髪師兼かつら製造業者であったが、牧師にして代数学の教授という有名なオカルティスト、クール・ド・ジェブランの弟子として学ぶうち、祭司になり占い師としての才能も発揮した。エッティラはジェブランの影響を最も受けたが、ピタゴラスの哲学思想にも傾倒し、数学者として万物の中にある秩序の真理を追い求めた。
彼が占い師としては遅咲きだが、この時代はフランス革命後の動乱期にあたり世間の人々とが不安な毎日を送っていたこともありそれだけに占いに頼る人も多く、彼のいるホテルには行列が絶えなかったと言う。
※クール・ド・ジェブランは「太古の世界」という9冊からなる有名な書を表した。第8巻「タロットの遊び」の中でタロットの紹介をしエジプト起源説を発表してオカルティストたちに強い影響を与えた。

マリ・ルノルマン
(1772~1843)
革命の嵐を生き抜いたワルキューレの巫女
彼女がナポレオンに彼の命運を予見したことは有名な逸話の一つとして今日にまで語り継がれている。すなわち皇后ジョゼフィーヌを離縁すると、ナポレオンはそれまでのツキから見放されてしまうということであった。彼女マリ・ルノルマンは、皇后のお抱え占い師だった。(ジョゼフィーヌと占いの出会いは別項に述べる)古来から、大多数の占い師がそうであったように、彼女は権力の庇護を受け大物を客とし、富と名声を得る事に成功していた。 マリ・ルノルマンは1772年、フランスはアレンソンに生まれた。修道院で養育された後、革命のため還俗して住居をパリへと移した。
占い師には学問的考察を持って人と天の世のまじわりを求め占い師の道を歩むタイプと、巫女的能力を有していたがためにその道に至る者と大きく分けるとその二つがあるが、彼女は霊媒であったが故に占いを習得した後者の一人であった。
彼女が実践した占いはタロットと手相であるが、しばしばトランス状態に陥ってはその予言能力を発揮したと言う。ナポレオンの天宮図を元に託宣をしたとあるから、占星術の知識も持っていたようだ。彼女は占いを実践したばかりでなく、タロットの小アルカナを(トランプのように)独立させ独自の解釈を持って新しく命を吹き込んだ。それが今日ルノルマン・カード(大小ある)と呼ばれるものである。
彼女が生きた時代は血を血で洗い、ヨーロッパ全体が嵐に巻き込まれて行くといったまさに激動の時代であった。彼女の客には革命派であったマラー、ダントン、カミーユ・デムーラン、エベール、サンジュスト、王党派のアングレーム公妃、ランベール公妃、プロヴァンス伯などそうそうたる顔触れが名を連ねている。さらにはあのタレイランとも親交があり、単なる占い師であっただけではなく、常に陰謀渦巻く政治や社交界の中にあって彼女は歴史を裏から左右する一人でもあった。
ナポレオンの失脚後はドイツ、イギリス、ロシアの連合軍に取り入り、中でもロシア皇帝アレクサンドルに寵愛された。ナポレオンがエルバ島を脱出したのを受けてベルギーに渡ったが、脱税の疑いで逮捕されるなど、大予言者として名を馳せた彼女の晩年は不遇であった。
1843年6月25日、パリに戻った彼女は寂しく息を引き取った。新聞はかつて社交界で活躍した花形占い師の死を小さくも報道したという。が、すでに彼女は過去の人であった。